四人はJの脚を蹴ってあぶみを踏み外させようとしたり、彼を取り囲んで右へ左へと弾き飛ばしたりした。
だがJは冷静さを失わず、最後の直線に差しかかったところで六馬身ほど後方から追い込みをかけたが、ゴールでほんの一馬身足らず届かなかった。
二日後、ターンとRという二人を先導役とする白人騎手たちがJを柵に追い詰め、さらに翌日の午後にはいたぶりは頂点に達して、ドクターウォームズリに騎乗したJは柵に叩きつけられ、さすがにこの出来事はついに審判と観衆の注意を引いた。
五日間連続で競馬場の救急馬車ががたごと馬場に出てきて、競争相手の白人たちに馬から落とされた黒人騎手の具合を調べる始末だった。
誰もこの事態を喜んではいなかった。
四レースで人気馬がこけて穴狙いの賭け手たちに七倍から三一倍の配当率で自分の金がどんどん払い戻されていくのを目の当たりにしたKやその配下の馬券屋たちにしても。
奮闘むなしく戻ってきた癖馬(詐潔数回)のスケイルズが擦り傷だらけで、右前脚には鞭によるみみず腫れができているのを目にしたPーDも。
ステークスーレースに勝ったこともある秘蔵っ子が肋骨を二本骨折して走路で激痛にのたうっているのを見たドクターウォームズリの馬主、R氏も。
それにドクターウォームズリの半ドンの馬体と内埓のざらざらした木材とにはさまれて左足首の皮膚をひん剥かれたJはむろんだ。
汗と流れ出る血にまみれたDは審判員たちにパドックへ運ばれ、そこでBとBという土地っ子の黒人騎手二人に出迎えられた。
審議台ではT審判がその椿事を事故と裁定し、加害馬ACは名うての「刺さる馬」−つまり内埓へと切れ込む癖のある馬であって、騎手のオーナーというアイルランド系の若者は馬をコントロールできなかっただけであるとした。
ACはハーレムでのそのあとのレースには出走を禁止されたが、Oはお咎めなしだった。
BとBはDの両足首の鞭痕を見て、真相を察知した。
Jはまだ若造だったし、それに白人に盾突くと殴られるか、もっとひどい目に遭うのがおちのブルーグラスで育った人間だった。
彼の怒りは無力感に取って代わられた。
「舌足らず」JやP・Mから授かった独立心の教えを彼はまだ体得していなかった。
喧嘩師になるには、Kのような気性も肌の色も彼は持ち合わせていなかった。
怪我から回復するには二、三日レースを休む必要がありそうだった。
しかしBとBはその一週間ずっと白人騎手たちの革鞭と拳骨に見舞われ通しだった。
翌日の午後、Bは白人騎手二人を落馬させて、ハーレムでの残りのレースには出場停止となり、Bは白人のターンが騎乗したマネーミューズという馬の鼻面を鞭で叩いて、罰金一〇〇ドルを課せられた。
シカゴの新聞紙上では、地元の競馬場での人種間紛争のニュースが猛暑の都会の絶望的な状況とじきに紙面を分け合うようになった。
シカゴーレコード紙八月一三日号で事故報道の前書き部分がこんなふうに書き立てた。
以下はこうだ。
「地元競馬場ではジョッキーの間に人種戦争が起こっている。
多くの地元騎手たちの成功を妬んで、ハーレムでの騎乗を引き受けた白人騎手たちがライヴァルを廃業に追い込むため窮余の策を講じたと言われている」記事はドクターウォームズリに乗ったJが落馬したのが発端と見て、「黒人の若者たち」が「自分たちは虐待されていると思い込み、反撃に出て、次の日には手荒い戦法に手を染めて、何人もが審判団に呼びつけられて釈明を求められる結果になった」と説明していた。
そうした対応もことを静める効果はほとんどなくて、二、三日後、二人の黒人騎手が白人騎手二人を追い詰めて、さんざんにぶちのめすという出来事があった。
Jは同僚たちの復讐行為にさして慰められもしなかった。
P・Dはもう自分の持ち馬に彼を乗せようとせず、他の馬主たちもじきに追随した。
危険すぎると言うのだった。
Dは一歩前進二歩後退というやり方でいかざるを得なかったにしても、トップージョッキーという立場を強固なものにした。
彼のニューオーリンズ進出は成功で、ニューヨーク行きは失敗だった。
シカゴではホーソーンでスターの地位を味わったが、市内を横切ってハーレムへ行ったのはわざわざ身の程を思い知らされに行ったようなものだった。
彼は一九〇〇年一〇月にはシンシナティと北部ケンタッキーのクイーンシティ競馬場へ戻っていた。
戻ってくるのは常にここだった。
おそらく黒人騎手が畏敬されるアメリカ最後の競馬場だった。
三流の馬が集まる二流の施設で、オーガストーペルモント率いる競馬クラブからは締め出されていた。
クイーンシティにつどう馬主たちをケンタッキーのお歴々と取り違える者はー人もいそうになかったが、M、P・D、その他ブルーグラスの熟達した調教師たちが時折二歳馬に経験を積ませるためここのレースに放り込んでみたり、あまり力のない馬にせめて餌代ぐらいは稼がせるため出走させたりすることは時折あった。
ここの馬主の多くは黒人で、Jが子供の頃乗っていたのと同じような馬をレースに出していた。
つまり自分の牝馬を旦那衆の種馬用厩舎にこっそり連れ込んで血統のいい種馬とつがわせたあと、自分の家で産ませた若い田舎馬だ。
もぐりの競馬場の手ぬるい監視や規則につけこむ白人農場主やギャンブラーも多少はいた。
新馬戦に誰も見たことのない替え玉の四歳馬を出したりする。
馬の調子を「箭らせる」という手もあって、これは必ずひどい走りっぷりになるようにレース前ろくに馬を調教しなかったり、あるいは乗り方もわかってない若い厩務員を乗せたりすることだった。
そして惨憎たる連戦連敗のあと、調教師は馬を「日に当てる」、つまりなるべく人目につかない場所で夜明け前に馬を運動させて絶好調に持っていく。
それからDのような本物の騎手を乗せて午後のレースに出すという寸法だ。
狙いは高いオッズで馬券屋をペシャンコにしたり、他の調教師を口車に乗せて相対で私的な賭けに応じさせたりするためだ。
これには二枚舌やごまかしだけでなく、賭けに一口乗るサクラが通常一人二人必要だった。
張本人が実はペテン師だといったんわかってしまうと、何の疑いももたないカモの予備軍は枯渇してしまうからだ。
幸い、労働者や遊び好きなアイルランド人とかドイツ人がわんさといるシンシナティと北部ケンタッキーは疑うことを知らない餌食の豊富な供給源だった。
賭けで一回うまく当てれば、酒場での一夜のドンチャン騒ぎと次の非公認競馬場への旅費ぐらいは賄えた。
Dは非公認サーキットのそうした賭博師を兼ねた馬主や調教師と気軽につき合った。
厩務員だった頃には、折にふれてかれらの馬を朝ひとっ走りさせてもらったものだし、一年間の出場停止期間中には、けちなレースに出させてもらって技を磨くこともできた。
クスリや小遣い銭を喉から手が出るほど欲しがっていたー、二の調教師のためにー黒人と白人だったがー何頭かの馬を日に当てたことさえある。
ただしその手のレースには決して騎乗させてはもらえなかった。
Jが乗るとなれば、その馬に賭け手の人気が集まってしまうからだ。
夜明け前の調教の手伝いは報酬として賭けに一口乗せてもらえるというメリットがあった。
Jも小遣い銭を必要としていた。
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